『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』を読んだ

本を読んだあとにメモなりブログなりってどうやって書けばいいのだろうかいつまでたってもわからないのだけど、やはり読んで読みっぱなしというのもなんだかもったいない気がするので何か書きたい。そうやって、今の状況をありのままに書いたとしてもその後の筆が進む訳ではなく、「書く」という行為はやはり難しい。

数々の素晴らしいブログの記事や独学大全を執筆した読書猿さんなどは、さぞスラスラを文章を書いているのだろう。自分はなぜできないのか。そう思ったときには本書を取るといい。世の中の「文章が書ける」人たちも、あーだこーだ言いながら道具を変えたりして苦しんでいるのだ。

これから先、また書くことが辛くなったとき、そっとこの本を開くだろう。同じように苦しんでいながらもなお、書くことをやめない人に勇気をもらうために。

気になった点について

「何者」になるとは「何か」

ヒトとしての成熟が、「自分はきっと何者かになれるはず」と無根拠に信じていなければやってられない思春期を抜け出し、「自分は確かに何者にもなれないのだ」という事実を受け入れるところから始まるように(地に足のついた努力はここから始まる)、書き手として立つことは、「自分はいつかすばらしい何かを書く(書ける) はず」という妄執から覚め、「これはまったく満足のいくものではないが、私は今ここでこの文章を最後まで書くのだ」と引き受けるところからはじまる。

ちょうど、今の仕事を続けて良いのかどうか考えているなかで、「きっと自分は何者かになりたいんだ」と考えた2日後くらいに、読んで打ちのめされる。そう、結局のところ何者にもなれないかもしれない恐怖を持ち続けなければならないことは分かっている。ただ、それでも「何者」かになりたいと願って努力を続けたいと思ってしまう。

冷静になって考えてみると「何者」かになるとは一体どういった状態をさすのだろうか。ここでいる「何者」とは一体なんなのだろうか。それは誰が決めるのだろうか。知名度?お金?社会的地位?番人が受け入れられる「何者」の基準はあるのだろうか。(まあ、ないのだろう。)

今これを書いている瞬間は、自分が何をやりたいのか迷子の状態だからなのかもしれないが、「何者」かになる、ということは、

  1. 自分がなりたい者が一体なんなのか理解する
  2. それになった

という二段階に分けられるのではないか。そう考えると1すら出来ていない自分からすると、1が出来た時点で結構すごいことのように思える。1ができれば2ってそんなに難しくないような気もしてしまう。

ただ、2で目指していた者になった途端に、その位置から新たに自分がなりたい者が出てくるのではないだろうか。そう考えると結局「何者」にかになるなんてby definition で不可能なのではないかという気がしてくる。終わりはないんだし長い目で「地に足つけて努力する」かという気持ちにもなれる。

準備された台本と、それを超える現場でのライブ感

小説を書くようになって思うのだが、先にアイデア出しをして整理しておくことのマイナス面があり、必要なパーツを組み立てるように書いたときの文章の感じと、なんとなくイメージを膨らませていくような自由連想的展開を比べるなら、後者の方が独特の 禍々しいとも言えるような迫力が出る。(1) 事前にある程度プロットを組み立て、それを実現するために本文を書くという書き方をする面と、(2) その書き方をしている途中で脱線的にイメージが出てきて奇妙な部分が書けてしまうときがあるのだが、後者の方が文学的旨みが強いと感じる。大規模なものになれば(1) なしでは難しいと思うが、(2) が起きることが大事(偶然なのでコントロールできないのだが)。

この一節を読んだときに、思い出したのは、テレビプロデューサーの佐久間宣行がラジオやYouTubeなどで話している内容だ。台本や打ち合わせなどで用意をしてから番組を撮り始める。実際に撮っていくなかで、流れが台本とずれてくる。台本の流れに戻そうとすうるもどうしてももどらない、ええいもうこのまま行ってしまえ!そうなったときに、台本で準備しているときには想像もしなかった面白いものが生まれるという。(よく話している例としては、ゴットタンのキス我慢選手権の初回、劇団ひとりとみひろの回など。)

ただ、それなら台本などを用意せずに最初から現場のライブ感だけでやればいいのではと思ったりしてしまうが、そうでもないようだ。実際(うろ覚えなのだけど)「アイデアの作り方」で言われていたように、しっかり頭に叩き込んだあと、一旦それを脇に置いて寝かせる。ふとした瞬間に、点と点が繋がりアイデアが生まれるといった現象とも近い。自分の経験としても、研究をしていた時期には、机に向かってうんうんうなっているときより、唸った挙句にトイレにいったり、シャワーを浴びているときにアイデアが浮かんでくるといったことがおおかった。

ざんざん準備した挙句、ふと訪れるアイデア、そういった現象には一定の普遍性があるのかと思うと面白い。

Kindleと物体としての本

今回の読書では、最初から最後までKindleで読んだ。本棚の容量の限界もあり、上記のとおり、ハイライトから面白いところを引用することができるのはとても便利である。これから新書に関しては基本的にKindleで買おうかと思っている。岩波新書が書籍版と同タイミングでKindle版が出ないことには正直驚いたのだが・・・。

物体の本を読む場合、今現在読んでいるページの位置が、読んだ部分の厚さと残りの部分の厚さから手の感触によってい常に分かることになる一方で、Kindleの場合、シークバーなどを隠すことで現在読んでいる位置がどこなのか分かりにくいという違いがある。この違いは、メリットにもなればデメリットにもなる。例えばミステリを読んでいる場合、残りのページがどれくらいかによって、謎の解決について予測できることがある。風呂敷が広がっているのにもかかわらず、謎の解決がなくページ数が少なくなっている場合は、「きっとこれは不条理解決だ・・・。」と予測できてしまう。一方で、Kindleの場合、そういった「メタ」な情報を遣った推測が効かないため、実際に書かれている内容だけを純粋に楽しむことができる。

しかしながら、これはデメリットにもなる。例えば、読んだ後に振り返って調べたりすることの多い本などの場合、「あそこで読んだ内容って、どこら辺だっけ?」となったときに、紙の書籍ではなんとなく位置を覚えているのに対して、Kindleでは全然わからない、ということがある。もちろんテキストであれば、文字列を検索することができるのではあるが、いちいち検索するのは面倒だし、その検索ワードまでは思い出せないといったことが生じる。

翻って、その「本」との関係性によって適した形態が異なるのだろう。KindleにはKindleの、紙の本には紙の本の良さがあるのだ。

余談

このように、何か書き始めると話が発散してしまうし、まとまりを持たせるように書き直すことも面倒になってきてしまう。まあでも、『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』 を読んだあとなら、それでもいいか、と断念できるようになった。